急速に普及するナッジ

著者
大正大学地域構想研究所 客員教授
小峰 隆夫

地域構想研究所では、2021年度以降、「地域戦略人材塾」を通じて地域創成を支える人材の育成に取り組んでおり、私がその塾長を務めている。その際力を入れているのが、地域を経営していく上で、有効な手段のオプションを提供することである。
私の専門は経済学なのだが、経済学には幅広い分野があり、しかも日々新しいアイディが生まれ続けている。こうしたアイディアの中には、各地域が戦略を立て、実行していく上で役に立つものがたくさんある。
地域の人々が自らの力で地域づくりを行っていく時、どんな手段を活用していくかは、基本的にはその地域の人々自身が決めなければならない。その時、この塾を通して、できるだけ政策選択のオプションを増やしておいて欲しいというのが私の願いである。
そんな考えでこの塾を運営してきて今年度で3年目になるわけだが、色々取りあげてきたテーマで、最も反響が大きいのが「ナッジ」である。
この「ナッジ」は、行動経済学という分野から発展してきた実用的な政策手段である。行動経済学というのは、人間の行動は必ずしも合理的ではないという前提に立って、人間行動のバイアスを研究する学問なのだが、その非合理的な部分を逆手にとって、人々の行動を望ましい方向に誘導しようというのが「ナッジ」である。
例えば、人間には「損失を回避しよう」というバイアスがあるので、同じ訴えるのであれば「こんないいことがあります」というよりも「やらないと損しますよ」と言った方が効果的である。
また、人間には「できるだけ自分で判断することは省略したい」というバイアスがあるので、最初の設定(デフォルト)をどうするかで判断が変わる。例えば、男性の育児休暇の取得を増やそうとしたい場合には、「育児休暇を取得したい人は届けを出してください」(この場合は、取得しないことがデフォルトになっている)というよりも「取得しない人は届けを出してください」(この場合は、取得することがデフォルト)と呼びかけた方が効果的だと言われている。
地域戦略人材塾の講義では毎年度このナッジを取り上げてきた。講義では、専門家の方がナッジの考え方を説明した後、参加自治体の方々がその考え方を、身の回りの地方行政に適用したらどうなるかを考えてみるということを行っている。こうした講義を通じて、私自身も「ナッジ」について、色々分かってきた。以下、どんなことが分かってきたかをご紹介しよう。
第1に、ナッジは実施に向けてのハードルが低い。例えば、自治体の方が身の回りの仕事を改めて見てみると、がんの検診を受けてもらうためには、どんな文面で督促したらいいのかといった、比較的取り組みやすい事例が転がっている。文面を工夫するだけだから、予算も大してかからないし、議会の承認を受ける必要もない。応用するのが比較的容易なのである。
第2に、ナッジのプロセスに乗せるだけでも結構プラスになる。ナッジでは、まず「どこにナッジを適用すべきか」を考えるため、ワークフローを作ってみることから出発する。例えば、効果的な督促でがん検診の受診者を増やしたいとすると、「督促状の発送」→「その受け取り」→「がん検診の督促であることの認識」→「検診を受けるかどうかの意思決定」→「検診を受けるための手段の認識」→「受診」といったフローを実際に書いてみる。そしてこのフローのどこがネックになっているかを考えてみるのである。私が見ていると、このフローを書いてみるだけでも、自らの業務を見直す良いきっかけになっているように見える。ナッジは、ナッジを使おうかどうかを考えるだけでも役に立つのだ。
第3に、ナッジの限界もあることが分かってきた。これは実際に受講生の方から出た例なのだが、ある事業についての指定事業者の登録を一定期間ごとに更新する必要があるのだが、この更新手続きが面倒で、つい更新を怠ってしまう事業者が出る。これをナッジで何とかならないかという議論になった。しかし、これはどうも更新手続きを定めた規則そのものを簡素化するのが最も効果的だということになった。つまり、基本的な手続きそのものに問題がある場合に、それをナッジで手軽に解決するのは無理ということなのである。ナッジを検討してみることは、「基本的な仕組みを修正すべきか」をふるいにかけるという役割もはたすことになりそうだ。
こうしたナッジは、既に多くの地方自治体で実用化が進んでおり、これからもどしどし広がって行くことは間違いなさそうだ。地域戦略人材塾でも、1年目にナッジを織り上げた時には「ナッジってなんだろう」という参加者が多かったが、3年目になると「ナッジを実際に活用したい」と考える参加者が高い割合を占めるようになった。ナッジは、この人材塾が目指していることがうまく実現している格好の例だと言えそうだ。

2023.09.01