ある大学に「現代家族と食卓」に関する特別講義で出かけた時のこと、熱心な学生さんが手を挙げてこんな質問をしてきた。「先生の食卓調査では、朝食・昼食・夕食って、それぞれ何時から何時に食べたものと決めているんですか?私たちも追試してみたいんですけど」。
私の答えは、「こちらからは決めません。それは調査対象者にお任せしています」だった。質問した学生さんは今一つ納得しない表情だったが、私が説明したのは、こういうことだ。
もし休日に寝坊した対象者が、昼の12時に食べた食事を「朝食」と言うのなら、それをデータとして採用する。夜勤明けで帰宅した人が、就寝前に食べた午前3時の食事を「夕食」と言うのなら、それも採用する。なぜなら、私が知りたいのは「調査実施者である私が規定した朝食時間帯に朝食を食べた人が何人いたか?」ではなく、「今の人は、どんなときに食べた、どんな食事を朝食と呼ぶのか?」の方だからである。
人は、起きて最初に食べた食事なら昼過ぎに食べても朝食と呼ぶのか、それとも午前中に食べたものを朝食と呼ぶのか。あるいは朝7時の水一杯でも「朝食」と呼ぶのか、それとも水は外すのか。それらはどうしてなのか、いつごろからそんな変化はみられ始めたのか、そんなことに私は関心がある。それなのに「何時から何時に食べたものを朝食とします」と規定して質問すると、せっかくの貴重な事実が捉えられずに消えてしまうではないか。
最近のデータを見れば、交代制で昼夜逆転して働く人も増えたせいか、起きて一番最初に食べる食事は昼に食べても「朝食」と呼ぶ英語の「ブレックファースト」感覚で答える人や、欠食習慣の増加で、水一杯飲んでも「朝食」と言う人が少しずつ増えている。また、水道水では「朝食」にしないが「ミネラルウオーター」なら「朝食」として記入する人もいる。こうして、たかが「朝食」という言葉一つとっても、あえて規定せずに問うと、その言葉をめぐる様々な揺らぎが見えてくるのである。
「揺らぐ」と言えば、家族の「続き柄」の記入の仕方もそうだ。
たとえばアンケートの家族記入欄に、3人の子供を「長男、次女、三男」と記すような親が散見されるようになってきた。いまは子供を男女別・年齢順に分ける家督相続時代の合理性も日常から失われ、どの子もみんな平等。「第1子、第2子、第3子」あるいは「上の子、真ん中の子、下の子」の方が、より現代家族の感覚にマッチしているのであろう。
そんなとき、通常は調査票回収後に行う「検票」作業で「長男、長女、次男」と修正したりするのだが、これもあえて私はしない。もちろん、そのままには集計しないし、そこに「次女とは長女のことか」などの注記を付けたりはするが、書き換えることはしない。それは国語的には記入上の「誤表記」であっても、社会学的には非常に興味深いデータだと思うからだ。
大人たち同士の呼称も怪しくなってきている。
インタビューで、子供を持つ30代~50代の女性たちに話を聞いていると、しばしば「私が仲よくしてる子が」とか「近所にいる子と」などの発言が出てくるが、これはたいてい「子供」のことではない。自分たちと同年代の、つまり40代、50代の友達も「子」と呼んでいることが多いのだ。「子」とは既に「子供」の意ではない、これはもう主婦の日常会話でごく普通の珍しくないことだと言ってよいだろう。インタビュー調査では慎重に耳を傾けないと、「子」が50代とは思わず「近所の子供を自宅に誘い込んで、酒を飲ませた50代主婦」というような、ありえない犯罪話と誤解しかねないのである。
そして、夫の親や兄弟姉妹を語る際の敬語にも、大きな変化が見られる。たとえば「主人のお姉さまがいらっしゃってお土産を下さったんで」とか「ダンナさんのお母様がお料理上手なんで、作って下さった料理は…」などと敬語で語るのが、今は一般的である。
これも、国語上は間違っているのだが、現代社会では、配偶者の親や兄弟姉妹に対して「身内」意識は希薄になっていることの表れだ。むしろ夫や配偶者の親兄弟は距離を置いて丁寧に語るべき存在に変わってきたことを示す重要なデータである。だから、発言起こしでは決してその文言を直さず、あえてその通りに残さなければならない。これなどは、平成時代の大きな変化の一つだろう。
また、一汁三菜の「菜」を「彩」と捉えて、「赤・黄・緑、三つの色が揃っている食事」と言う人や、「野菜」と捉えて「三つの野菜が使われている食事」と言う人など、「一汁三菜」という言葉も常識ではなくなって、様々な珍解釈が生まれている。ワンディッシュメニューの増加で、そんな食事を重視する人も減り、言葉も通じにくくなってきたからである。やがて実態が見られなくなれば、言葉も死語になっていくのであろう。
さて、毎年、インタビュー起こしではそんな日本語の変化を痛感するのだが、最後に昨年(2018年)末の調査に表れた新語・新解釈の中からいくつか挙げてみよう。
「うちの娘は完璧主義だからストレスがたまりやすく、爆発する」とは、「完璧主義だから、自分のやりたいことや欲しいものがかなわないとストレスを感じ、通してくれなかった学校の先生や友達、親に当たったり爆発する」という意味。「私は、高いものでも糸目をつけずに買う人」とは、夕方のセールを待たずに、正価で牛乳や卵を買う人」。また「なるべく食べやすいものを食べたい」とは、口当たりが良かったり口に運びやすかったりするものではなく、「嗜好性が高く、食べる気分になれるもの」を示すように、大きく変わりつつある。人が物理的な特徴や操作性より、自分の「気分」重視になってきていることの表れかもしれない。
このように次々と変わっていく日本語に私は毎年苦しめられながら、一方では新鮮な興味深さも感じている。だが、これは単に日本語の揺らぎや乱れ、あるいは変化の話なのだろうか。
そうではなくて、現代日本人の急変しつつある暮らしや感覚の変容が言葉にまで表れてきた、重要なデータではないかと考えるのである。地域のフィールド・ワークにも、今はきっとそんな視点が欠かせなくなっているのだと思う。