行動経済学とナッジ(上)

著者
大正大学地域構想研究所 教授
小峰隆夫

ナッジというのは聞きなれない言葉だと思う方も多いとは思うが、今や特に公共部門で急速に浸透しつつある考え方である。簡単に言うと、人々の考え方には「バイアス」があるので、むしろこのバイアスをうまく使って、人々の行動をより望ましい方向に誘導しようというものだ。

では人々の行動にはどんなバイアスがあるのか。 それを解明するのが行動経済学である。行動経済学という分野は、私が大学で経済学を学んでいた頃(もう50年くらい前だが)には全く存在しなかった分野だ。それは伝統的な経済学とかなりフレームワークが異なっている。

伝統的な経済学で、人々の行動を取り上げるのは「ミクロ経済学」という分野である。消費者は所与の予算の中で自らの効用の最大化を追求し、企業は利益の最大化を追求する。すると、経済的に最適な資源配分が実現する。つまり、経済を構成する人たちは、自分の利益が最大化するように勝手に行動すればよい。その結果が社会的には最も望ましい結果をもたらすというわけだ。

もちろん、こうした考え方には限界もある。例えば、道路や警察のようなサービス(公共財という)は民間の自由裁量に任せるわけにはいかない。また、自由な競争の結果、社会的に許容できないような格差が生じるかもしれない。

ところが行動経済学は、全く異なる視点から議論を展開する。それは「人々の行動は必ずしも合理的だとは限らない」という議論である。

伝統的な経済学では、経済を構成する人々は、自分の経済状態や、自分が持っている情報を踏まえて、自らが最適な状態になるように合理的に行動するという前提を置いている。行動経済学は、 現実の世界では人々は合理的ではなく、バイアスを伴った行動を取ることがあることを実証的に示したのである。人々の行動が合理的ではないとすると、「各人の自由な行動が社会的に最適な資源配分を実現する」という命題が成立しなくなってしまうのだ。

利得より損失を強く意識する 損失回避バイアスを実験してみる

実例で考えた方が分かりやすいだろう。私が最もなるほどと思うバイアスに「損失回避バイア ス」というものがある。これは私自身も、大正大学の授業で確かめてみたことがある。まず学生に「サイコロを振って偶数だったら1万円もらえるが、奇数だったら1万円払う」と言われたらどうするかを聞いてみる。これには圧倒的に数の学生が「サイコロは振らない」と答える。これは誰もが「1万円もらう」うれしさよりも、「1万円損する」悲しさの方を大きく評価しているからだ。これが損失回避バイアスである。

実験をさらに続けてみよう。次に「偶数だと1万2000円もらえて、奇数だと1万円払う」という場合はどうかを問うと、これもサイコロを振らない学生が多い。偶数か奇数かの確率は50% だから、サイコロを振ることによる期待値は1000円( 1.2万円×0.5-1万円×0.5)だから、合理的にはサイコロを振った方が良い。しかし、現実には振らない方を選択するのである。さらに、もらえる金額を1万5000円、2万円と引き上げていくと、さすがにサイコロを振るという選択が増えてくるのだが、2万円を超えてもまだ振らない人が 結構いる。

面白いのは、学生が真剣であることだ。架空の実験であり、本当にお金が動くわけではないのだが、「うわー、どうしようかな」と結構真剣に悩んでいる。机上の実験でも案外しっかりした結果が出るのだなと実感する。

専門的な分析結果によると、人は利得よりも損失を2.5倍くらい大きく感じているようだ。これを図示したものが下の図だ。右側の利得の領域の価値の上り方よりも、左側の損失の際の価値の下がり方が大きいことが分かるだろう。

 

人間のバイアスを利用するナッジは上手に使えば政策効果を高める働きも

こうして人間の行動には合理性からかい離した バイアスがある。このバイアスをうまく利用しようというのがナッジである。「ナッジ」というのは「肘で軽くつつく」という意味で、そっと働きか けることによって行動を促すということだ。ナッジは、既に各方面で活用されつつあり、環境省ではナッジの例を集めて「ベストナッジ賞」を選定しているほどだ。2018年の同賞がちょうど前述の損失回避バイアスを利用したものなので紹介しよう。

八王子市では、前年度に大腸がんの検診を受けた人に大腸がん検査キットを送っているのだが、 せっかく送っても受診率があまり高くない。そこで、送る際のメッセージを二通り準備して、どちらが効果があるかを調べてみた。一つは「今年度がん検診を受信された方には、来年度検査キットをご自宅にお送りします」というもので、もう一つは「今年度受診されないと、来年度、ご自宅に検査キットをお送りしません」というものだ。

実質的には同じことなのだが、やってみると前者の「来年度も送ります」の場合は、受診率が 22.7%だったのに対して、後者の「送りません」の 場合は受診率が29.9%となった。前者が利得を強調したものであるのに対して、後者は損失を強調したものとなっている。同じ内容でも損失を強調した方が効果が大きいということである。これは「人間は利得よりも損失を大きく評価する」という損失回避バイアスがあるためである。

この例のように、ナッジを使うと、ちょっとした工夫で、あまり予算も使わずに政策効果を高めることができるのだ。

⇒続きは『地域人』Vol.56で!

 

2020.05.15