京都国際マンガミュージアムに館長としてほぼ十年間、月に一度は京都に通った。それで京都がわかったかというなら、むろんわからない。そもそも何がわかれば、京都がわかったことになるのか、それがわからない。
とはいえ、京都人でも知らないであろう事実を、この間に一つだけは見つけた。それは左京区に属する八丁平という湿地に、ハバビロヒゲボソゾウムシがいることである。こんなことには、おそらく私以外にほとんどだれも関心を持たない。
このゾウムシは19世紀の終わりに、ドイツ人のファウストという学者によって名前が付けられた。その標本はドイツのドレスデンの博物館にいまでもある。この九月初めにドレスデンまでそれを調べに行った。この標本は、ファウストがワイゼという別なドイツ人から、1900年にまとめて購入したものの一つである。それは標本につけてあるラベルからわかる。
名前が付いているから、ハバビロヒゲボソゾウムシはもちろん新種ではない。この種類と思われるゾウムシは、京都のほかに、関東の河川敷からのものも知られている。ところが京都産のものと、関東産のものを比較すると、どこか違う。しかも京都と関東の間の中部地方からは、まったく採れていない。こういう場合に、いちばん疑わしいのは、両者が別な種ではないかということである。関東と関西の個体群の間に、交流がなかったと思われるからである。
そこで何よりまず、ファウストが記載した種類が関東のものか、関西のものか、それを決める必要がある。だから今回は、ドレスデンまでそれを確かめに行った。答えは簡単で、ドレスデンのものは関東産だった。関東のものは、京都産より一回り大きいので、すぐにわかる。むろん標本のラベルには「日本」としか書いていない。
ここから先は、あらためて調べることになる。京都産と関東産のどこがどう違うか、それをはっきり決める必要がある。違いが明瞭であれば、京都産のものには、まだ名前がないことになる。それを新種というのである。その先の詳細は述べる必要はないであろう。
じつはこのグループの虫は、日本列島の地史と深くかかわっている。京都と関東にいるのに、中部にいないというのは、意味が深い。1500万年前の日本列島の状態を示しているかもしれないからである。
当時関東はまだバラバラの島状態だった。秩父と日光、阿武隈、千葉の一部などが別々の島として存在していた。他方、中部は全体がまとまった島で、紀伊半島はさらに別な島、中国地方は海の底で、陸になっていたのは山口県と、現在は伯耆大山(ほうきだいぜん)になっている、小さな島だけだった。この地図で、京都が中部地方と一緒だったかどうか、微妙なところである。この辺りのことを考えるのが、じつは私は面白くてしょうがないのである。
京都と言えば、話題はどうしても人の作った都のことになる。しかしその都がそのような自然の歴史の上に成り立っているか、そこを思う人はあまりいない。現在のように地震が多発すれば、活断層やプレートには興味を持つ人が多くなるが、虫はまだまだであろう。でもある虫がそこにいるかいないか、それだけでも、その土地の特徴がそこに表れる。
当たり前だが、ある土地を「知る」というのは、そう簡単ではない。ウィキペディアの時代には、ときどきそれを思い出す必要がある。京都の八丁平の五月を私は「知っている」。いまでもその情景をありありと思い出す。その感覚は他に代えがたいもので、そこでしか得られない。ハバビロヒゲボソゾウムシの標本にはそれがいわば貼りついている。ただの干からびた虫の死骸ではないのである。