映画とは何か。そう思うと、不思議な感じがする。
子どものころは、映画しか娯楽がなかったから、よく映画館に行った。最近はメディアでいろいろ観るものがあって、何が映画で何が映画ではないのか、がわからなくなってきた。これは間違いなく映画だ、というものを観る機会が減った。NetflixやHuluをよく観るので、映画を観ているといえば、観ている。記録映画は推薦を頼まれたりするので、おもに家で観る。テレビがほとんどパソコンの一部と化したので、比較的に大きな画面で観ることができるようになった。うちのパソコンは全部画面が小さいのである。映画館には行かない。コロナのせいだけではなく、年のせいで外出が面倒になったからである。
八〇代の半ばを超えると、死んだところで誰も不思議に思わないであろう。次第に生きているのが変だという年齢に近づいてきた。寝転がって、映画でも観ているのが楽でいいが、目が疲れる。夜遅くまで映画を観て、翌朝目覚めると、なんだか疲れを感じる。お疲れですか、と訊かれることも多い。そりゃ生きていれば、疲れますよ、と答えることにしている。
子どものころに観た映画が懐かしい。姉に連れられて、終戦後はよく映画館に行った。フランス映画ばかりで、『自由を我等に』(ルネ・クレール監督、1931)、『女だけの都』(ジャック・フェデー監督、1935)など、タイトルは覚えているが内容は忘れた。よく覚えているのは『美女と野獣』(1946)で、ジャン・コクトー監督、主演男優はジャン・マレー。なぜ覚えているかというと、その後三回も見たからである。好きだったんだからしょうがない。ブロードウェイのミュージカルでも観たような気がする。これは家族に連れて行かれたので、観たくて行ったわけではない。
自分で観に行ったのは、喜劇ばかり。エノケン(榎本健一)やエンタツ・アチャコ(横山エンタツ・花菱アチャコ)の作品を観た。鈴木澄子主演の「化け猫」もの(1937年ごろの怪談映画)も好きで、まあ古い話である。
映画は表現者にとって、惹かれるジャンルかもしれない。私は文字を書いて表現することしかしていないが、映画なら直接に時間軸を加えられる。視覚自体は時間軸を持たないので、表現に時間を取り入れたければ、映画がいい。
視覚は動きと連動しない。他人の体操を見ても、簡単には真似られない。映画はコマ送りすることで、静止画を動きにすることができる。静止画が動画に換わる。一種の詐欺みたいなものである。私自身は徹底した視覚人間らしく、表現に映画を使うことは考えたことがない。
専門にしていた解剖学では、死体を扱う。この対象は変化しないから、視覚的な記述に向いている。昆虫標本も同じ。だから生涯、そういうものばかり見てきた。若いころは「スルメを見てイカがわかるか」と馬鹿にされたが、ヒトはおそらくスルメしか本当には見られないのである。生きて動いているイカは、それを見ていると思っているだけであろう。生きているイカの記述は難しい。そこに動画なり映画の出番がある。
時間は連続的に流れることになっていると思うが、この辺りは難しい。若いころは時間に関心があって、あれこれ読んだり、考えたりしたが、むろん解答には届かなかった。最近では『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版)という本が出るくらいである。
どうしてそんな変な結論になるのかは、大体わかる。著者は理論物理学者で、方程式を扱う。その中に時間「t」を含む項があって、ある条件下でその「t」を消すことができるということだと思う。それならそれで仕方がないので、時間を含まない方程式ですべてが書けるということになろう。もちろん著者はそこまで言及していない。
私自身はというなら、時間は視覚と聴覚・運動系を折り合わせるために意識が発明した作り物だという意見を持っている。時空という、カントのいわゆる「アプリオリ」は、そう考えるとそれなりに理解できる。視覚は内部に時間を含まないし、聴覚は空間を含まない。この二つを一緒にしないと、言語ができないのである。しゃべっても日本語、書いても日本語ではないか。しかも両者は「同じこと」を伝達する。
最近の言語論で、こうした視点を見ることはない。つまり私の個人的な意見に過ぎないが、まあそれでやむを得まい。万事はなるようにしかならないからである。
撮影●藤巻徹也
(『地域人』第89号掲載)