こども家庭庁が今年4月に設置された。こども家庭庁では、常にこどもの視点に立ち、こどもの最善の利益を第一に考えることが掲げられており、こどもの意見や子育て当事者の意見を政策に反映するとしていることから、こども家庭庁の創設により、こども政策が大きく前進する可能性がでてきたといえる。これまでこどもの課題が厚生労働省、文科省、警察庁、法務省、内閣府など縦割り行政でバラバラに捉えられてきたことも、包括的視点から各省庁が協力しあい、解決への道しるべを提示できるようになることが期待される。ホームページには、「こどものみなさんへ」とのクリックがあり、こども基本法の説明やこどもの意見を募っている。
現在、日本のこどもを取り巻く環境は厳しい。年間、児童虐待相談対応件数は、21万件を超え、虐待死する子どもは年間50人を超える。小中高のいじめの件数は年間50万件を超え、小中学校の不登校生徒は20万弱、小中高の自殺者は令和2年には過去最高の415人となった。介護せざるを得ない両親や祖父母、幼い兄弟たちの面倒などで自分の勉強や娯楽の時間の確保ができない「ヤングケアラー」の存在も近年うきぼりになり、中高生のおよそ5%を占めているとの調査結果も出された。20歳未満の中絶件数は、およそ1万件となっている。7人に1人が貧困状態にあると言われ、OECDでは最低ランクとなっている。母子家庭の平均就労年収はおよそ230万円と父子家庭の半分以下であり、平均所得に遠く及ばない。当事者たちの声はまだまだ政治に届いていないと感じる。
こども基本法では、こどもの人権が守られ、こどもが適切に育てられ、教育の機会を与えられることの権利と同等に、「全てのこどもについて、その年齢及び発達の程度に応じて、自己に直接関係する全ての事項に関して意見を表明する機会及び多様な社会的活動に参画する機会が確保されること」が謳われおり、こどもを社会の一員、広義の主権者として捉えている。こども家庭庁を設置して、ホームページや相談窓口、こどもを集めての集会などからこどもの意見を集めることは意義深いことだ。その一方で、意見の表明方法や社会活動への参画機会は、学校や家庭で教わることがなければ、成長に応じた意見表明も社会活動もできない。「好き嫌い」といった感情論や全体を把握することなく、一面的視点でしか語られないリスクも負う。つまり、大人がこどもを主権者として認識し、家庭内、学校でそうした教育を行っていくこと、そしてこども自身もまた、民主主義の根幹である「参加と責任」という概念を理解し、意見を表明していくことがすべてのスタートである。こども家庭庁の設置にいたるまでそういった議論はすっぽりと抜けおち、こども家庭庁は、少子化対策を柱に単に「保護すべきこどもたちを救う」庁になってしまってはいないだろうか。
ドイツの哲学者マイケル・ガブリエル氏は、「こどもたちに選挙権がないのは恥である。それは女性に選挙権がないのと同じであり、子どもたちを選挙から排除している。そして、そのことがとんでもないことであることに気づいていない」と断言する。ドイツでは、政治教育は小学生から行われており、若者の投票率も7割程度と日本の若者の投票率の倍以上だ。選挙権だけでなく、被選挙権も18歳で、環境や人口問題などの課題に関する議論が学校内だけでなく、社会全体で盛んに行われている。ここには、教師たちの「政治的中立性」を自らの鍛錬によって乗り越え、「私も主権者であり、あなたたちも主権者の一人であり、さまざまな意見が尊重される社会の構築こそが民主主義の土台である」という政治教育がある。私自身、公共政策学のクラスでは、安楽死や男女共同参画などについて、学生を賛成、反対の意見のグループに分けて議論する機会を設けているが、日本の高校までの教育では、教師の政治的中立性を意識するあまり、「自分も主権者であるとともに、こどももまた主権者である」といった視点が欠けているのではないかと感じる。
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今後のこども家庭庁では、異次元の少子化対策、さらに「保護されるべき弱い立場のこどもたち」という視点だけではなく、「主権者たるこども」をいかに育てていくべきかという議論もしていってほしい。被選挙権が25歳であることに合理的な理由はあるのか。といったテーマについても、こども家庭庁が先頭に立って、議論を進めていってほしい。そういった姿をこども家庭庁がこどもたちに見せることで、こどもたちも単に「保護される立場」から「自ら意見を表明し、社会参画していく」立場へと能動的に育っていくのではないか。そして、しいてはそれが、子どもたちの抱える様々な課題解決へとつながっていくと私は信じている。