これというアテもなく、ただブラブラ歩く。これは散歩で、旅行ではない。旅行は目的か意図が一応あって、計画的なものだという気がする。家を歩いて出て、まもなく家に帰ってくるなら散歩だが、車で出たらどうなんだろうか。散策という言葉もあるが、これはそのあたりを少し細かく見て歩くという感じがあって、「策」という意識的な感じがするのが、やや気にいらない。むろんそれは私の勝手な感覚である。旅もこれというあてもなくウロウロするのが理想的だと思ってしまう。
そもそもヒトの自然な状態とはどういうものだろうか。椅子に座っているなら、居住まいを正すという感じが関わってくる。
地面にゴロンが自然な気がするが、雨上がりで地面が濡れていたりすると、具合が悪い。椅子に座ることがかならずしも自然ではないということは、腰痛に関する本を読んで教えられた。
老齢になると、文明人の八割が腰痛になるそうで、その原因は椅子にある、と著者は言う。本の題名は忘れた。
電車やバスで、ヒトはどうして座りたがるのか。私は学生時代に鎌倉から東京まで、通学に満員電車を利用していたから、座ることができなかった。中年には勤務先の近くに部屋を借りたから、満員電車と縁が切れたが、どうもなにか物足りないので、新幹線で出張する時には、東京から名古屋あたりまで、立つことにしていた時期があった。親切な車掌さんが、「お客さん、あっちの席が空いていますよ」などと教えてくれたが、ありがとうと言って座らなかった。
今でも講演の時には、演壇に立ってウロウロ歩く。聴衆には目障りかもしれないが、椅子に座ってしゃべるということができない。直立して動かないというのは、疲れる。多少でも歩くほうが楽である。立って、ウロウロ歩く。これがヒトの正常のあり方ではないか。椅子に座ってじっとしている。これが正しいあり方だというのは、学校でつけられた癖であろう。
それが自然ではないから、子どもによっては教室をウロウロ歩いたりする。今ではこれを注意欠如・多動性障害(ADHD)などと呼んで、薬を飲ませたりする。私が小学校に入れば、そうなるに違いない。
2月11日に開催された「大正大学地域構想研究所シンポジウム」の基調講演で。
撮影●藤牧徹也
私が住む鎌倉は、連日大賑わいである。以前から観光客は多かったが、このところ特に多い気がする。NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のおかげだという。タクシーの運転手さんも、ふだんなら行かないところに行かねばならず、好きな人物を訊かれたりするので、テレビも見なきゃならないことになったとボヤく。
旅はこれというあてもなくウロウロするものだから、コンテンツはなんでもいいのである。私は虫採りに行くので、コンテンツなんて現地に着いてからの話である。なにか特別な目当ての虫でもあれば別だが、私の場合、そんなものはない。なにがいるかわからないから採集旅行が面白いので、特定の虫が欲しいなら、現地の人に頼んで採ってきてもらえば済む。旅費と時間が節約できる。
最近はアニメや映画に出てきた場所に行く、コンテンツツーリズムが流行らしい。これは虫採りの対極であろう。ここは誰かがあの虫を採った場所だ、という場所に行くとしたら、その場所で採れたその虫の標本が必要だから行くので、きわめて限定された目的がある。これをやると、私の場合にはまず失敗する。目的の虫が採れないのである。数年前に屋久島でそれをやった。ひと月に三十五日雨が降ると言われるあの島で、五日間快晴だったのに、空振り。翌年プロが出かけて、ちゃんと採ってきた。クソッ!
人生はよく旅に例えられる。人生に特定の目的などない。仮にあったとしても、どうせ思うようには行かない。あそこに行ってみようという程度のコンテンツツーリズム型の人生でいいのではないだろうか。
(『地域人』第88号掲載)