子どもの幸せ

著者
大正大学地域構想研究所 顧問
養老 孟司

学制の改革は私が若い頃に行われた。いわゆる六・三制に変わった時で、私の数年上までが旧制高校だった。こういうことの是非は議論しても仕方がない。学制改革の結果がどうであったか、それを測るべきモノサシがない。

教育の議論は際限がない。誰であれ、一定の制度で教育を受けてきているから、ほとんどの人に一家言がある。でも自分は一回しか教育を受けられないから比較の対象がなく、本当は是非を論じようがない。

もちろん教育に関して、全体的な傾向を述べることはできる。今年教育について、いちばん参考になったルポは、髙橋秀実『道徳教室 いい人じゃなきゃダメですか』(ポプラ社)だった。小学生が「道徳」という科目をどう教わり、どう思っているのか、そうなる背景はなにか、それがよく伝わってくる。

現代社会で教育に注目が集まる理由の一つは、少子化であろう。なにしろ生徒が集まらなくては、教育自体も教育制度も成り立たない。

つい最近、オオタヴィン監督の『夢見る小学校』という記録映画を観た。映画の後で脳科学者の茂木健一郎とオオタ監督と私の三人で、この作品について議論する機会があった。駒澤大学の授業の一環だった。公立学校の子どもたちが、ほとんどフリースクールのような状態で授業を受ける。それが一般化しないことについて、多くの人が文科省の縛りを問題にするが、じつは文科省の縛りなんてない。問題は現場の教師と親たちであって、経済成長期に必要とされた、一定の常識を備えた、一律の世界に適応の良い、おとなしい子どもたちの育成を目的とする癖がついている。その背景には江戸時代以来の世間の暗黙のルールが存在しているから、議論なんかしたところでラチが明かないのである。

三十代までの若い世代の死因のトップが自殺だというのは、現代日本社会の病を示す典型であろう。そこに子どもたちをできるだけ自由に「遊ばせる」型の教育が現れてくるのは、いわば必然と言うしかない。そこで子どもたちが幸せを感じるなら、それでいいのである。そうした教育の普及によって、自殺が減少するか否かは、良いモノサシになるはずであろう。

その場合、小学校以降の、より高等の教育はどうあるべきか。多様性を高めるしかない。一律に教え込んでいないのだから、それぞれの子どもに対して、適切な教育を施さなければならない。書類書きが大変で、子どもの相手をしている時間がない先生なんて、教育の本来に反している。

少子化の時代に、従来通りの教育をしていたら、都合が悪いだろうということは、誰にでもわかるはずである。いわば勝手気ままに小学校を経てきた子どもたちの次に来る教育は、その子を見て丁寧にやるしかない。人が少なくなった社会では、各人が全能力を発揮してくれなくては、社会が成り立たなくなる。その意味で来るべき時代は、することが多方面にたくさんあって、希望にあふれているというべきであろう。

今日は環境省の主催で、茨城県内の里山で全国から参加した五組の子どもたちと、虫採りをした。

この子たちはやがてかならず大震災に出遭うはずで、その時には自分の全能力を発揮して生き延びなければならない。しかもそのあとの社会を自分たちの力で築き直していかなければならない。だから身体を使って、はたらくことを怠けてはダメだよ、と釘を刺しておいた。

心配しようがするまいが、不幸は必ず来るのだから、現在の幸せを予測に妨害される必要はない。安心して、虫を捕まえていればいい。ガムシ、タイコウチ、マツモムシなどがたくさん採れた。私の子どもの頃、昭和二十年代に戻ったような日で、こういう幸福な時もあるのだな、と生きている喜びを感じた。

新潟県胎内市の胎内昆虫の家にて。

(『地域人』第87号掲載)

2023.04.03