ケア(care)とキュア(cure)は、私の頭の中では対句である。キュアは医師の行う治療、それ以外に患者さんの面倒をみるのがケア。お世話と言ってもいいであろう。この両者は医療の初めから対立と妥協を繰り返してきたように見える。
もちろん現代は治療優先であって、その結果であろうが、ケアの地位はより低い。私の父親は昭和17年(1942)に結核で亡くなった。ご存知のように、戦後まもなく、結核には化学療法が使われるようになり、結核は治療可能な病になった。
私の父の時代は大気、安静、栄養と言って、もっぱらケアをするしか手がなかったのである。
ではケアには意味がないかと言えば、そんなことはない。結核の例で言えば、英国の疫学的な調査では、かならずしも化学療法だけによって結核患者が減少したわけではない。大戦後、結核の患者は減り続けており、そこに化学療法が登場したのである。大戦下の英国の社会情勢は厳しいものだったから、安静と栄養どころではなかったはずである。
病気の治療には、キュアとケアのどちらも欠かせないというのは当然のことである。ただ全体の傾向として、時代により場所により、どちらかが優先されることは多い。ちょっと医学の歴史を調べてみれば、すぐにわかる。できるだけ「自然のままに」という治療が勧められる時代もあれば、できるだけ積極的に「なにかする」という医療が優先することもある。ヒトには何かしないではいられないという癖があって、それが積極的な医療を進めてきたのではないかと、私は個人的に疑っている。
『土を育てる』という本がある(ゲイブ・ブラウン著 服部雄一郎訳 NHK出版)。米国の農家の人が書いたものだが、不耕起で化学肥料、除草剤、殺虫剤を使用せずに農業をやり、採算が取れるまで頑張ったという記録である。まさに自然農法だが、それがなかなか普及しないのは、「何かしなくてはいられない」というもともとヒトに備わった性質によるのではないかと思う。畑に種を撒いておいたら、ひとりでに育って収穫があった、というのでは、なんとなく心もとない、というか、気に入らないのであろう。労せずして収穫を得るというのは、好まれない。ヒトの心情に反するのかもしれない。
目の前に苦しんでいる人がいれば、何とかしてやりたいと思うのは、人情の自然であろう。そこで医療が始まるわけだが、その程度によって、キュアとケアが分離してくる。従来の慣行としての農業はキュアに近く、自然農法はケアに近い。自然に対してどの程度人為が関与すべきかについては、欧米と日本の文化に、かなり差があるように思う。周知のごとく日本は天災の多い国である。そこに人為が関与する余地は少なかった。
現代の日本の医療では、そこに若干の変化が見られるように思う。臨床研究と呼ばれる、治療の効果を客観的に測定して、治療法の適否を定めるべきだという意見が広がってきたと思う。
その最終的な指標は患者の生存率である。当たり前と言えば当たり前だが、欧米依存で走ってきた治療を改めて基本から見直す試みは、広い意味での自立であって、個人だけではなく、社会についても重要なことだと信じる。
箱根にて。 撮影 島崎信一
(『地域人』第85号掲載)