紀伊半島

著者
大正大学地域構想研究所 顧問
養老 孟司

和歌山県は遠い。東京圏から行くと、日本中でいちばん遠い場所を含んでいるのではないだろうか。通常の道筋は、大阪から行き、和歌山市に入るルートだと思うが、名古屋方面から伊勢を経て行く手もある。奈良県から入るのがいちばん普通でないルートであろう。私はどれも行ったことがある。

潮岬(しおのみさき)の展望台から海を見て、地球は丸いなあと思ったことを覚えている。水平線がわずかに丸く曲がっていたからである。コロンブスのような船乗りが「地球は丸い」と信じたのも、無理はないなあと思った。そういうことを感じるのは潮岬でなくてもいいはずだが、なぜかその時にはそう感じたから仕方がない。

2,500万年ほど前に、日本列島がアジア大陸から分離したとき、紀伊半島は独立の島だったと言われている。その跡は虫にいくらか残っている。日本では紀伊半島でしか見られない虫がいくつかいるからである。

いま私が調べているヒゲボソゾウムシというグループでは、ルイスヒゲボソゾウムシが紀伊半島特産で、ヒゲボソ類の中では特異な、なかなかいい格好をしている。オスの頭に突起があり、いかにも「どうだ、珍しいだろう」という姿なのである。他のヒゲボソゾウムシも、なぜか紀伊半島の内部で細かく種分化しており、七種くらいに分けられている。クマノヒゲボソ、ゴマダンヒゲボソ、イセヒゲボソなどという名前がついている。

なぜ分化しているのか、理由はよくわからない。おそらく火山活動のせいだろうと推測している。1,500万年くらい前の噴火によって、生息域が分断されてしまい、あちこちに独立した集団が生じ、それが地質時代の長い時間を経て、それぞれ独立種になってしまったらしい。火山がどこにあったかは、今の地図を見てもわからない。

火山があったことは、岩石や地形からわかる。「熊野カルデラ」という名前もあるし、「古座川の一枚岩」は流紋岩質凝灰岩とされる。過去の火山活動による陸の状況と、現在の虫の分布がうまく重なってくれると、理解が一歩進むが、私の生きている間に正確な答は出そうもない。これが虫の研究の面白い所で、虫がどのように分布しているかで、その土地の地質上の歴史がある程度わかる。

紀伊半島の山中を、ヒゲボソゾウムシを採集しながら移動すると、2,3㎞にわたってまったくヒゲボソ類が採れなくなる場所がある。そこが境界で、境界を越えると、また別な種類が出現してくる。

類似の二種の虫が隣接して生息する場合、境界では雑種が生じる可能性が高い。雑種の生存能力が低い場合には、絶えず雑種が滅びて、どちらかの親種が優先するはずである。長い時間それが繰り返されると、雑種が生じない程度に親種どうしが分離して、状況が安定するはずである。雑種がどちらの親種よりも強ければ、最終的には二つの親種が雑種に統合されてしまうであろう。

和歌山県と紀伊半島は同じではないが、私の頭の中には和歌山県はほとんど存在しない。紀伊半島があるだけである。和歌山県という区切りは人の都合であって、自然の切り口ではない。ただ調査の必要はまだまだある。これからも和歌山県に通わざるを得ないと思っている。


神奈川県箱根の別荘にて。 撮影 島崎信一

(『地域人』第80号掲載)

2022.10.03