祈りと聖地というと、たちまちイスラム教徒が浮かんでくる。私の場合の決まりきった反応なので、頭が固くなった証拠ではないかと思う。時間が来ると、廊下の床の上だろうが、地面だろうが、座り込んで、お祈りが始まる。メッカという聖地の方角に向けて祈るらしいが、そういう習慣のない私には、ビックリするような行動である。
歳をとると、自分がつくづく日本人だなあと思う。別に日本人はかくあるべきだとか、こうだとか教えられた覚えはない。でもなぜか「日本人なら」とか「日本人は」と思ってしまう。
その私という日本人の中には聖地はないし、祈りもあまりない。戦時中なら皇居に向かって最敬礼だったが、皇居は別に聖地ではなかったと思う。ただし聖地はあるといえばある。東京なら高尾山で、関西なら春日山である。たまたまいろんな虫が採れる場所というだけのことだが、同時に神社がある。虫取りでは、あまり祈らない。お祈りは長年関係したカトリック系の保育園で、お昼ご飯を食べる前後だけである。子どもたちと一緒に「ありがとうございます」と感謝のお祈りをする。
虫の多様性の高い所に神社があるのは、必然性があるような気がしてならない。昔の人々は現代人より生物多様性に敏感だったはずである。生物多様性が高いということは、食料を集める効率がいい場所だということである。それを知ることは、生きるために必要な能力だったに違いない。
私には祈りの習慣がない。子どものころに絵本で読んだ山中鹿之介の三日月に祈るという場面が記憶に焼き付いている。祈りの内容は「我に七難八苦を与え給え」というものだったから、子ども心にお祈りなんかしたくない、ということになったのではないかと思う。人生長く生きてくれば、七難八苦は勝手にやってくる。わざわざお祈りするまでもない。七難八苦を耐えきれば、その分偉くなれるということであろうが、いまさら七難八苦に耐えて偉くなっても仕方がない。お祈りでいま何か願うとしたら、せいぜい安楽死であろうか。
祈りとは何かを以前に考えたことはある。その時には適当な答えが出たような気がしたが、その答えはとうに忘れてしまった。昔から人は祈るもので、祈るという「形」と祈る内容は関係がない。虫で祈る形をとるのは、カマキリである。カマキリは胸の前で手を合わせる。英語では「praying mantis」と呼ぶ。ヘヴィメタルのグループ名のほうが有名かもしれない。学名では「mantis」だけでカマキリのことだから、「praying」は余分だが、祈る手で他の虫を捕まえて食べるという不穏当さが、印象的だったのであろう。
祈願は今でも普通に使うと思う。戦時中は戦勝祈願という言葉を多く聞いた気がする。日本で一番に普通の祈りは祈願ではないだろうか。自分の願いをかなえてもらう、という神頼みである。礼拝は儀式ないし儀礼的な感じが強く、祈りとはあまり関係がないように思われる。ことほど左様に、祈らない人間があれこれ考えても、大したことは思いつかない。
●撮影:島崎信一
(『地域人』第76号より)