村と普遍

著者
大正大学地域構想研究所 顧問
養老 孟司

私の母は神奈川県の山村の出身である。三人姉妹の長女だったから、そのまま家に居ると、婿を取らされて、農家を継ぐことになる。それを嫌って都会に出た。そのいきさつは自伝に詳しい。

父は福井県大野の出身で、十人兄弟の真ん中あたり、一高帝 大という戦前のエリート・コースを通り、商事会社に勤めた。つまり二人とも地方の出身で、都市に出たという、典型的な「都会の」日本人である。戦前の村を嫌ったのは、たとえば坂口安吾である。その詳細を知りたければ、安吾の文章を読めばいい。ほとんど村を呪詛していると言ってもいい。村社会を都会人がどう見たか、それには「きだみのる」の『気違い部落』シリーズを読めばいい。

村を出て、都会に住み着く。これは洋の東西を問わず、似たようなものであろう。なぜなら都会の人口は多いが、再生産は少ないからである。たとえば中国なら、北京からの下り列車はない、と言われる。地方から都市に出たら、もはや帰らない。日本で人口の再生産率がいちばん低いのは東京で、下から二番目は京都府である。それなら人が増える田舎から、都市に出るしかない。それが都市を維持する。

現代世界はほぼ都市化が進んでしまった。途上国とは、それがまだ十分には進行していない地域と見ることもできる。ブータンは首都ティンプーの人口が二十年で三倍増に近くなり、最近では地方に逆戻りが出ていると言われる。今年もラオスに行ったが、ヴィエンチャン近郊は新しい住宅地が造られつつある。

もっとも中国が鉄道を引き、中華街を作るというのである。中国とインドは、アジアにおいて、もっとも古くから都市化した地域であり、都市文明の典型である。

ネット環境の進展に伴い、都市化はさらに進んだ。都市化とは要するに意識化、すなわち脳化である。その意味では、人については地域性が消え、世界が画一化したと言ってもいい。都市化の傾向が落ち着いてきたので、逆に地域の見直しが進む。現在はそういう状況にある。『地域人』とはうまく命名したものだなあと思う。そういうものがあるはずなのだが、それはいったい、どういう「人」なのか。「村の人」なのかなあ。

言語を考えてみれば、アジアの共通語は英語、それもいわゆ るブロークン・イングリッシュである。アフリカではスワヒリ語、インドではヒンディー語、フィリピンではタガログ語。いずれも共通言語で、地域人をつなぐ役割をする。中国語の始まりも、おそらくそうではなかったかと推測する。単語を並べるだけの、孤立語だからである。要するにカタコトなのである。

意識の典型的な機能である言語がこういう状態である。コン ピュータはそうした違いを一切持たない。インドのコンピュータも中国のコンピュータも、まったく同じように機能する。こういう視点から見ると、コンピュータが人を置き換えるわけがないとわかる。意識の中の普遍的な部分を取り上げているだけだからである。普遍的なものだけが存在するなら、あなたは要らない。物理の法則が宇宙に普遍かつ不変だというなら、物理学の論文に著者名は不要である。

意識というのは、変なものだ。つくづくそう思う。

「虫塚法要」での講演風景。右は生物学者の池田清彦さん

2018.08.13