いま再び湿原の保全運動に火がついた

著者
大正大学地域構想研究所 客員教授
河野 博子

日本最大のラムサール条約登録湿地・釧路湿原は、44年前の登録、37年前の国立公園指定とも、地元市民の運動が機運を作った。それを再現するかのように、いま「湿原の保全を」という声が高まりつつある。

湿原を浸食する太陽光発電施設

地元の環境団体「もっと釧路湿原」の勉強会が7月20日に開かれ、私は講師として参加した。ここ数年、全国各地の地域住民と再生可能エネルギーによる発電事業者との間のトラブルを取材、地方自治専門誌やオンラインニュースサイトに書いてきたからだ。
「このままでは、湿原がソーラーパネルの海になってしまう」という悲鳴を聞きつけ、私は2023年春に現地を訪れた。「なにをまた、大げさな」。その時は、半信半疑だった。ところが、空港から釧路市中心部に向かうバスの窓や釧路外環状道路などの高速道路を走る車窓から、大小様々な太陽光発電施設が見えた。
この夏、その存在は一層際立って見えた。もちろん、その多くは国立公園の地域外にある。例えば、釧路野生生物保護センターという環境省の施設のすぐ近く。道路沿いに、NPO法人・トラストサルン釧路による「ヤチボウズ保護地」がある。

ヤチボウズ保護区

ヤチボウズは、湿原の地面からボールのような形に盛り上がるスゲの仲間の株。その保護地の隣に太陽光パネルがずらりと並ぶ一角があった。砂を入れ、地盤が整備されていた。パネルの下の植物やそこに住む生きものへの影響も大きいだろう。

保護地に隣接して設置された太陽光パネル

日本の土地利用法制

勉強会では、メガソーラー(1000kW以上の太陽光発電施設)をめぐり、地域住民が問題視する理由、太陽光発電施設の普及拡大をもたらした制度の問題点、乱立を防ぐための地方自治体の条例など自治体・地域住民による工夫について話した。
ひと通りの話が終わった後、ひとりの年配の女性が思い詰めた様子でやって来て、「キタサンショウウオの生息適地となっている湿原にアミをかけ、そこに太陽光発電施設を作ることを禁止できないのですか」と私に問いかけた。
まさにポイントを突いた質問だった。市町村がその域内全域を対象にした土地利用計画を策定する欧州の国とは異なり、日本の土地利用法制ではよほどのことがない限り私有財産は制限できないという考えが基本になっている。ただ、条例を制定し、抑制地域を設けて、そこに発電施設を設置する場合には自治体の長の同意、もしくは許可を必要とする、といった仕組みを作ることはできる。市町が「ゾーニング」と呼ばれる手法を使い、太陽光施設の設置を歓迎する地域を設ける一方、ここに作られては困るという地域も設け、なるべくそのエリアは回避してほしい、と意思表示をしている例もある。
女性が心配した「キタサンショウウオ」は、釧路市指定の天然記念物であり、環境省が定める絶滅危惧種の一つでもある。体長約11㎝と小さく、湿原に生まれ育ち、動いてもせいぜい100mという狭い範囲で生涯を過ごす。生息状況の研究が進み、最近になって、国立公園地域の外、南側の地域にも生息適地が広がることがわかってきた。

保護と開発をめぐる議論

釧路湿原がラムサール条約の登録湿地に指定されたのは、1980年。今から37年前の1987年には、国立公園となった。地元の市民、研究者、環境団体による保全運動が実った形だ。1972年に出版された田中角栄氏の「日本列島改造論」で開発拠点とされたことなどから、1970~1980年代に地元で、釧路湿原は将来どうあるべきかをめぐり、激論が交わされ、そのなかで湿原保全の機運が盛り上がった。
1973年に釧路地方総合開発促進期成会(会長:釧路市長)が報告書「釧路湿原の将来」を出し、その後1982年に再び同名の報告書が出された。「市街地開発は海岸線から6kmまでに収めるべし」という考えが出されて踏襲され、国立公園の区域外であっても市街化調整区域として開発が抑制されてきた。それに加え、釧路市は2009年に景観条例を作り(施行は2010年)、高さ8メートルを超える工作物を設ける際には届け出が求められる。
ところが、太陽光発電施設は、建築基準法上の建物ではないため設置できる。高さもおおむね8メートル以下なので、景観条例もクリアできる。あれよあれよという間に設置が進んできた。
世界を見渡すと、再生可能エネルギーの拡大普及は、日本だけの現象ではない。気候変動(地球温暖化)抑止のための脱炭素の手段として重要視され、再エネによる発電事業への投資も進んだ。石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料を使うのをやめ、あるいは減らし、その代わりに太陽光、風力などの再生可能エネルギーにより発電するという方法をとれば、温室効果ガスの排出を減らせる量も明確で、効果は大きい。
一方、森林、土壌、海域などは温室効果ガスを吸収するが、そのメカニズムは複雑だ。例えば、森林土壌からは植物の根呼吸に加え、落葉・枝・倒木中の微生物による有機物の分解により二酸化炭素が出ている。気温上昇に伴い、その排出量は増えるが、光合成活動も活発になり吸収量も増える。地域差も大きい。研究は途上にあり、自然生態系の維持保全の効果は、数字で明確に示しにくい。
したがって、温室効果ガスの削減効果がわかりやすい再エネによる発電施設の設置にドライブがかかる。

新たな保全運動

釧路市は、「自然と共生する太陽光発電施設の設置に関するガイドライン」(2023年7月施行)を条例に「格上げ」することを検討中だ。「もっと釧路湿原」などの環境団体は、実効性のある条例づくりが必要と考えている。そのためにも改めて釧路湿原保全の機運を盛り上げ、利害関係者や様々な市民との間で議論を重ねようとしている。
それは、言うほど簡単ではないかもしれない。
釧路湿原は、「将来、高値で売れる」とのセールス文句で原野を売り込む不動産ビジネス、「原野商法」の舞台の一つだった。国立公園地域の南に広がる「南部湿原」もそうした地域の一つ。そこは、キタサンショウウオの生息適地でもある。そうした土地を建設会社などが買い集め、太陽光発電事業を誘致しようという動きもある。
一方で、売れない土地を相続した人たちが、土地を環境団体に寄付する動きも出て来た。まさに、<太陽光発電用地として利用したい>勢力と、<キタサンショウウオが生きる湿原の保全>を目指す勢力は、せめぎあっている。
だいたい、生物多様性、生態系保全の必要性は説明が難しい。とかく専門家の間で話しているだけに終わってしまいがちだ。ましてや、昭和時代からの開発やビジネスの方法を変えようとしない人たちとどう話し合いを重ねていけるのか。私は外からその大変さを眺めているにすぎないが、地元の「もっと釧路湿原」のメンバーはひるんでいない。
メンバーの一人で、「トラストサルン釧路」の理事を務める看護師の泉知明さん(43歳)は、ベストセラー漫画「ゴールデンカムイ」の結末に鼓舞されたという。2014年から2022年にかけ漫画週刊誌に連載されて本が出され、今年に入って実写映画も話題になった「ゴールデンカムイ」。主人公のアイヌの少女らは手にした土地の権利を記した文書をもとに日本政府と交渉を続け、その大半が国立、国定公園になった―。物語の結末に現れたのが、自然環境・生態系保全という「究極の目標」だったことに、泉さんは「雷に打たれたような感じがした」。
自然環境・生態系の保全活動は再び熱を帯びてきた。

2024.09.02