教育問題の議論に欠かせない「自走性」視点
近年、文部科学省は教育改革を急ピッチで進めているが、多くの学校は膨大な課題を抱えており、変革は遅々として進まない。現場からは聞こえてくるのは、軋みや悲鳴ばかりだ。それを象徴する一つが「ブラック校則」だ。
読者の多くは、これを学校や教職員の問題と捉えているに相違なく、たしかにその一面はある。しかし、単に廃止するだけではなく、校則がなくても何ら支障のない学校にするには、教職員だけの問題と捉えてはならない。必要なのは、保護者や地域など、子供や若者をとりまく大人の「子供観」のアップデートだ。そして、その具体像を理解するには「自走性」という視点が欠かせない。
自走性とは何か。「問題集を解いている」という外見的な姿は同じでも、内面的には「自ら学んでいる」場合と「勉強させられている」場合がある。それは「自分で走っている車」と「人が押すことで初めて動けている車」の違いとも喩えうるが、両者の違いが自走性の有無だ。
実は、「ブラック校則問題」の解消をはじめ、改革が上手く運んでいる学校は、子供をとりまく大人が「子供の自走性」を信じている。そしてそれは、学習観が Society 3.0(工業社会)から Society 4.0(情報社会)へと転換できているかとも関連している。すなわち、こうだ。
・ Society 3.0 ‥ 学ぶ楽しさ < 誘惑
・ Society 4.0 ‥ 学ぶ楽しさ > 誘惑
誘惑教育に管理統制が蔓延った理由
Society 3.0 では、規格品を大量生産するのに適した人材もまた「規格品」であったことから、子供の興味関心や個性よりも規格を満たす(点数をとる)ことが優先された。そこから「勉強とは嫌でも我慢してやるものだ」という考え方が台頭し、「どうせ自分の意志ではやらないから、管理強制しなくてはならない」となり、学習塾などの「手取り足取り」が歓迎されるようになった。今日の日本は、それがすっかり染みついてしまった社会といえるであろう。
その際、邪魔になるのは「誘惑」だ。他に気を引くものがあっても、学びもまた楽しければ、無理なく学習へと誘いうるもの。しかし、土台にあるのが上記の学習観となれば、誘惑は大敵であり、子供のまわりから退治しなくてはならなくなる。
こうして整備・運用されてきたのが「ブラック校則」だという訳だ。教員の多くが ICT 機器を授業に導入したくないのも、根っこは同じである。
関連して、部活動には誘惑に近づく時間や体力を奪う効果もあり、健全な運営を志向している学校や先生も多い半面、それを意図している学校、その副次的効果を期待している学校や教員もゼロではない。“受験戦士量産校”が好む、宿題の「物量作戦」も同様だ。
私が「冷めたステーキ」と喩えている “探究” ‥「探究プロセスという手順に沿って『考えさせる』活動」‥形は探究だが熱はない‥も同根だ。こうした基調が学校の業務量を増大させている構図もご理解いただけるであろう。
学びが楽しければ管理統制は要らない
対照的に、Society 4.0 では「三人寄れば文殊の知恵」的な価値創造が求められ、一人ひとりには個性を徹底的に発揮することが求められる。当然それは「やらされ学習」では無理。一人ひとりが自分らしさをどこまでも追求できる土台として「学ぶ楽しさ > 誘惑」という条件が大切になる。
ここで「学ぶ楽しさ」の源泉となる「興味関心」は百人百様。子供の生活を「全員一律」で覆い尽くそうとすればするほど「学ぶ楽しさ」は奪われていく。それは、全員一律に課すべき部分と、「楽しい」と感じたこと‥「好奇心」を抱いたことを存分に追求できる「遊び」‥とのバランスが大切であることを意味する。
加えて「遊びを大切にすれば、数ある誘惑の中から、胸躍る何かに出会い、楽しさを味わい、それが学びにつながる」という視点も大切だ。子供から遊びを奪うから、ゲームを与える必要性に迫られるのだ。
また「何かを感じるから遊ぶ、遊ぶから何かを感じる。そして、その中から問いが生まれる」「遊んだ経験に丁寧に働きかけることで、興味関心が高まる」‥ これが探究の出発点だ。こうして、Society 3.0 の人と、Society 4.0 の人との間で、探究に対する捉え方にも大きな差が生まれる。
・ Society 3.0 ‥ 探究プロセスに沿って『考えさせる』思考活動(=冷めたステーキ)
・ Society 4.0 ‥ 実社会や実生活で何かを感じる中から生まれた問いや、丁寧な働きかけによってジブンゴトになった課題を起点に『自ら考える』活動
こうした構図により、子供に「学ぶ楽しさ > 誘惑」を実現できれば、校則で縛る必要性も、ICT機器を「学習から逃避するツール」として使う心配も、探究の導入を阻む障壁も、手取り足取りに要する業務量も、緩和されていく。
以上、単に「ブラック校則」のみならず「探究」「ICT」「働き方改革」など、学校教育界の今日的なキーワードは、多くが「自走性」とつながっている。それは「自走性の向上」という視点なくして、学校改革はできないことを意味する。
いま大人に求められる「子供観」のアップデート
ここで、学校や教職員は決して一方的な加害者ではなく、むしろ被害者といいうる理由を確認しておきたい。仮に、保護者や地域が「子供に自走性はない」という見方を持っていると、どうなるか。圧倒的に「学ぶ楽しさ < 誘惑」な状態にある子供が教室へ大量に送り込まれるのは不可避だろう。しかも、厳しい時間的な制約の中で成果を求められるとなれば、それは無理難題と言わざるをえない。学校は、とても「自走性」などと悠長に言っておられないのだ。
それは、学校や保護者を含め、社会全体で「子供の自走性」向上に努めることや、その土台として「大人の子供観アップデート」に取り組んでいくべき重要性を物語っている。もちろん、それに必要なのは「何かを感じるから遊ぶ、遊ぶから何かを感じる」機会を全ての子供に届けること。それが達成できているかどうかは「子供が笑顔でいるか」「地域に子供の歓声が響き渡っているか」どうかで判別できる。
では、それにはどうすればよいか。大人が子供と「何かを感じるから遊ぶ、遊ぶから何かを感じる」場を共有することだ。こうした経験なしに、大人が「子供には遊びが必要だ」と気づくのは難しいのではないか。
大人が「子供は自走できる存在」という子供観をもつ地域では、子供は自走的に学ぶようになり、社会をよくしていこうという態度や能力は無理なく高まる。対照的に、大人が「子供は自走できない存在」という子供観をもつ地域では、子供は管理強制されないと勉強しなくなり、世の中をよくしていこうとする態度や能力が高まろうはずはない。
以上、ブラック校則問題を解決するには、子供の自走性を高める必要があり、それには大人の子供観をアップデートすることが必要である構図について解説してきた。
この問題に向き合って改善をはかる自治体、見て見ぬフリをして放置する自治体。20~30年スパンでみたとき、両者に差が生まれないはずはなかろう。したがって、真に自治体の持続可能性を願うのであれば、域内各校区で「子供観のアップデート」に一日も早く向きあう必要があるといえる。その第一歩は「大人自身の自走性向上」だと申しあげ、結びとしたい。