ひとりでに街ができてくるということはあるのだろうか。インドでは工事現場に家族連れの労働者が集まって、アッという間にスラムができる。ということを『シャンタラム』 (グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ著、田口俊樹訳 新潮文庫)という小説で読んだことがある。
私は自分の家の設計も考えたことがない。すべて女房任せである。自分の部屋のしつらえも、必要に応じて物を置く場所を空けるくらいのことなら考えるが、模様替えはまずやらない。
大学に勤務していた時も、実験室の設計とか、暗室の設計をしなければならなかったが、私が設計した部屋で仕事をした人は災難に遭ったようなものであろう。坂口恭平さんが大学では建築学科を出たけれど、段ボールハウスの研究をしたと聞いて、似たような人がいるらしいと嬉しくなった。
自分の行動する周囲の空間を設計するという能力は、どこから来るのだろうか。
俯瞰する視線、私はそれがまったくダメである。上から目線じゃないか、と思って、なぜか拒否する。コロナによる死者何人という統計にもすぐに反発する。これも上から目線だからである。
小さい時から虫ばかり追っていたせいかもしれない。虫を追うなら、どうしても近くか、下を見る。きれいなタマムシ類は樹木の頂上、樹冠を飛ぶ習性がある。そういう虫を私は採らない。あまり上を向かないのである。身近に接するものだけが私の現実であるらしい。
家の設計もできないんだから、まして街づくりなんて縁が遠い。ブノワ・マンデルブロの言う通り、現実の世界はフラクタルでできている。人工的な街は直線を多用する。理想的な直線は脳の中にしかない。散歩してみて、いちばん面白くない街は、直線でつくられた街である。
自然の地形に合わせてやむを得ず成立した街、それが歩いていちばん面白い空間であろう。
●撮影 島﨑信一
(「地域人」第63号より)