マンガと日本

著者
大正大学地域構想研究所 顧問
養老 孟司

日本がマンガ・アニメ大国になった理由を以前に論じたことがある。その背景を私は音訓読みという特殊な文字の読み方だと考えた。ヴェトナムや朝鮮は漢字を取り入れたが、音訓読みはないようである。マンガは漢字の古い形つまりアイコンであり、吹き出しはルビに相当する。アイコンとは元のものの感覚的な一次印象を一つでも残している図形のことである。視覚で判断する文字に、視覚的な一次印象を残すのは、視覚にとってはわかりやすいが、聴覚にとっては無意味である。言語が視聴覚を結合したものだという前提を認めるなら、アイコンが漢字から排除されていくのは当然である。

さらに日本文化におけるアイコンの発達ということのそのまた背景を考えるとすれば、いわゆる「感性」の問題があろう。その感性が美意識と結合するところに日本の文化の特徴があることを論じたのは、福田恆存である(『日本を思ふ』文春文庫)。そうした感性を養うのは、よく言われているように、日本の自然である。和歌の題材はしばしば花鳥風月とされる。

歴史上、非常に古くから都市化した社会では、自然は日常的に接するものではない。都市は自然を排除する場所として定義できる。中国はその典型であろう。それは中国人が自然の美しさを「感じない」ということではない。自然から与えられた感覚入力が出力―狭い意味では行動―に影響しにくい、出力の基盤になりにくいということである。当然そこには文化的な傾向も含まれる。特に幼少期の子どもに与える自然環境の影響が大きいことは、現代でも指摘されることである(リッケ・ローセングレン著、ヴィンスルー美智子・村上進訳『北欧の森のようちえん 自然が子どもを育む』イザラ書房)。

明治以降の日本のいわゆる「近代化」が排除してきたものは、じつは自然にかかわる感性であった。これは意図的ではなく、いわば無意識であろう。その傾向は東京一極集中に見られるような戦後の強い都市化とともに、さらに進む。その反動として、スタジオジブリの諸作品を見ることもできよう。こうした作品は自然回帰の主張というより、自然へのノスタルジアというべきであろう。

都市化の究極の姿として、AIの発展を定義することもできる。AI中心の社会では、ヒトは意識的に創られた環境の中に完全に埋没する。あまり気持ちのいい予想ではないが、自然からの入力は、災害と同じように、すべてノイズとして感じられるようになるはずであり、その予兆はすでに見られている。例えば少子化は、自然離れの典型であって、それを意識的な状況の中で解決しようとするのは、本質的に無理があるというしかない。

●撮影 島﨑信一

(地域人第65号より)

 

2021.03.01