本屋の店先

著者
大正大学地域構想研究所 顧問
養老孟司

私が大学生だった頃、ということはつまり六十年ほど前、本屋に行くのが楽しみだった。いまでもあちこちの本屋さんの店先が目に浮かぶ。

私は鎌倉で生まれ育ったから、行きつけの本屋さんで長身痩軀、白髪の老人に出会い、小林秀雄だなあと思ったことがある。本屋さんは当時三軒あって、それを時々見回る。そのほかに古本屋さんが数軒あって、そこでもずいぶんお世話になった。新刊とは違って、本の種類が多い。というより、こんな本があったのか、と思うような、当時の私とっては奇妙に思われる種類の本があった。

特定の本を探すこともあったが、どんな本が出ているのか、それを見たかった。本の価格も学生が買うには手ごろだったと思う。家庭教師のアルバイトは、週一回、一月で三千円以上になった。それを複数掛け持ちすれば、本は買えたのである。

いまでは本屋さんに行く時間が減った。特定の本を探すなら、アマゾンがある。古本を含めて、必要なものがすぐに手に入るから、資料としての書物はアマゾンに頼るようになった。

洋書はほとんどキンドルになった。紀伊國屋書店や丸善に長らく通ったが、キンドルが出だした頃から、すっかり頼り切ることになった。なんといっても、本の数が桁違い。必要と思う本がまず手に入る。ただ似たような本をすぐに推薦してくるから、同じジャンルの本ばかり読むことになる。最近は「あなたへのおすすめ」と称して、私の好みをキンドルが勝手に決めてくるようになった。それに従うと、ますます図に乗る。読んだ本に点数を付けろと言う。五段階評価である。

教師としての私は、学生の評価が嫌いだった。評価するのも、されるのも嫌い。以前から書いていることだが、本というのは、精神科の患者さんの訴えと同じである。患者さんの訴えを「評価する」必要はない。「そういうものか」と思えばいい。書いてあることに腹を立てても仕方がない。その人がそう言っているだけのことである。

最近では学生の方が評価慣れして 、ちゃんと点数を付けてくれと言うようになった。自分でしたことは、評価を含めて、自分の責任である。評価も自分ですればいい。だから自己評価というのである。

客観性、第三者とは、じつは神様目線である。上から目線と言ってもいい。自分自身のことを上から目線で見ていれば、やがて自分が消えてしまう。若者が自分探しを言うようになった遠因はここにある。近頃になって、そう気が付いた。無敵皇軍、神国日本などと称して、いわば「主観性が高かった」時代には客観性が大切だったが現代のように逆方向に偏ると、「主観性」の喪失のほうが気になってくる。生きること、生きていることの意味がわからなくなる。

本屋さんの店先は相変わらず私の好みの場所である。まだ私の診断を待っている患者さんがたくさんいるなあ。それを実感させてくれる。どうせ死ぬまでに全部は見切れない。そう感じて、逆に安心する。そこにあるのはまだ実現されていない可能性である。ひたすら現在のみに集中していく世界の中で、違う時間の存在を感じさせてくれる 。私の選択次第で、それぞれ違う世界が開けてくるんですからね。

 

鎌倉・建長寺の虫塚法要で。
撮影●島﨑信一

 

2019.10.15