人それぞれ

著者
大正大学地域構想研究所 顧問
養老孟司

世間並み、人並みという表現がある。日本の世間では、こうした暗黙の標準が生きている。これは暗黙だから、べつに明確な基準として定められてはいない。

五体満足というのもある。これは身体の基準で、この基準がどのくらい強いか、たぶんお気づきではないだろうと思う。たとえば重症サリドマイド児についていえば、こうした症例が発生した時点での生存率は、日本は欧米より五十%低かったはずである。

私はそれを告発する気はない。らい予防法も同じ基準に基づくと思う。要するに顔貌、身体の変化が目立つ病は世間から排除される。人前に出る、人前に出せない。そういう表現もある。

ふつうではない身体に対する許容度は、まず第一に、慣れで変化する。やがて慣れてしまうのである。ただし、やや時間がかかる。私自身の場合だと、いわゆる奇形、先天異常児にほぼ完全に慣れてしまうまで、十年ほどかかっている。慣れるというのは、異常が異常ではなくなって、そのままの人に見えることである。医学部の標本室には多くの標本がある。それに慣れるのに十年ほどかかった。具体的にはそういうことでもある。むろんこの感覚には個人差もあるはずで、私は慣れが遅い方かもしれないと思う。でも、ともあれ慣れてしまった。

美人という概念がある。これは世界の地域的にも異なるし、時代でも違ってくる。おそらくヒトは仲間の身体について、頭の中で、いつの間にか統計的な標準を作っているのであろう。その基準によく合うのが美人である。つまり美人とは統計的に標準の顔なのである。このことは、大勢の人の顔を重ね合わせて作る画像からわかる。そういう画像は、もちろんボケてはいるが、美男美女なのである。

常識的には、これは変な結論である。なぜなら統計的に標準なら、美人の数は多いはずだからである。ではなぜ美人は少ないのか。

それは見る側の感覚の問題に違いない。統計的な標準に近くなるほど、美人か否かの採点が厳しくなる。そう言ってもいい。標準からのわずかのズレが、大きな減点になる。その標準とは、その人がいままで見てきた顔の平均値になっている。

現代人が忘れがちなのは、「見ている側」のことを忘れることである。とくに科学は対象を「客観的に」見ようとする。でもそれはあくまでも「見る側」の態度に過ぎない。客観的事実が存在するか否か、それはわからない。カントではないが、存在しているのは統計値であって、対象自体ではない。

現代人は客観と称して、すべてを統計値に変えている。だからこそビッグ・データなのである。ビッグ・データは言ってみれば「コンピュータの主観」に過ぎない。ある病気の死亡率を計算することはできる。でも自分がその病気にかかったとしたら、死ぬか生きるか、つねに五分五分である。

障がいとは、つねに見ている側の問題である。本人は基本的にはそういう存在なのだから、どうもこうもない。「そういうもの」なのである。現代人が障がいに関して問題を感じるのは、それが現代人の「客観性という主観」に関わるからであろう。まずは脚下照覧というべきか。

箱根の別荘にて。     撮影:島﨑信一

2019.04.15