コロナ禍が招来した環境変化への適応を怠った集団に未来はない

著者
大正大学地域構想研究所 教授
浦崎太郎

「地域を担っていく若者の育成に急ぎ着手しないと、この地域に未来はない」‥そんな危機感を強めていた知人が地元の行政機関とかけあい、その機関が主催する、ある研修会の講師に私を推薦してくれた。しかし、その後のやりとりを通して、知人には申し訳なかったが、受諾を「拒否」することにした。オンライン化に対する該当機関の感覚があまりにもズレているのを感じてしまい、「若者の育成」に先んじて急ぎ着手すべき「大人の意識改革」は無理だと判断したからだ。

オンライン化の進展による研修スタイルの革新

オンライン化が社会的に広まる前といえば、分野を問わず、種々の情報を多くの方々に届けるには、リアルな研修会に頼らざるをえなかった。講師がせっかく長い時間をかけて現地に出かけても、講演時間は限られており、必要な情報を届けきる前に終わってしまう。参加者も、初めての内容を高速高密度で聴くこととなり、十分な理解に至らないまま閉会してしまう。そうした制約によって、聴いた内容をじっくり味わいなおしたり、質疑応答を通して理解を深めたり、それらを地元でどう活かしていくか議論したりといった肝心な部分は、懇親会に委ねられる。しかし、その場では一時的に盛り上がりを見せるものの、多くは後に続かない。それは、専門家たる講師の力量を真に必要とするのは「その先」であり、初学者の手に負えるものではないからだ。それに対して、余程の事情がない限り、そうした現場に専門家が継続して関わることはない。

以上の構図により、多くの研修会は結果的に「打ち上げ花火」で終わり、地域が新たな展開を見せることは稀であり、結果として、地域はさらなる衰退に見舞われる。そして、その障壁は遠隔地ほど高い。

こうした構図は、コロナ禍に伴うオンライン化の進展よって激変した。リアルな会議を開催できなくなったことから、Zoomをはじめとする、同期型の遠隔会議システムの利活用が瞬く間に浸透した。それに伴う形で、YouTube等の非同期型伝達システムを活用すべき必要性が共有された。皆が都合をつけて揃えた時間には、皆が顔を揃えていてこその質疑応答や議論に充てた方がよい。ここで、その時間を奪うのは説明の時間だ。当然「一方的な情報伝達だけなら、各自が都合のつく時間に、各自のペースで受信した方がよい」となる訳だ。

こうした環境変化は、私自身にとっても、研修先の地域や学校にとっても、絶好のチャンスに映った。それは、基礎知識を伝授する部分をYouTubeに委ね、遠隔会議では多くの時間を質疑応答や意見交流に充てることが可能になったからだ。折しも、4月下旬には全国各地の高校や地域の方々と深く共有すべき情報が生まれ、急きょ250名規模のオンライン会議を開催。早速ここで、新たな進め方を導入したところ、私たち運営側にとっても、参加者にとっても、満足度の高いものとなった。

こうした成功をふまえ、以後の研修会では可能な限り、これを基本として遠隔会議を設計した。並行して、必要な基礎知識はYouTubeで習得できるよう、YouTubeにチャンネルを開設し、多くの講義動画を登録した。(‥はからずも、ユーチューバー・デビューしてしまった訳だ)

地域や学校の側にとってもメリットは絶大だ。YouTubeでじっくり基礎知識を習得した上で、質疑応答や意見交流に臨むことができるとなれば、各自の現場が抱える課題の解決につなれられる可能性が格段に高まるからだ。そして、その恩恵は遠隔地ほど大きい。

コロナ禍への対応をみれば集団の存亡を判別できる

そうしたスタイルが自分の中ですっかり定着した頃に届いたのが、冒頭の依頼だった。時節柄、基本的な建付けは「オンライン講演会」であり、私にも「オンラインで講演を」との線が示された。ただ、接続が困難な参加者も想定し、サテライト会場を用意するという。私は当然、YouTubeでの予習を前提とし、当日は多くの時間を質疑応答や意見交流に充てる、という提案を行った。適宜のサポートを施せば、サテライト会場の参加者も議論に加われるはずだからだ。

ところが、数日後に届いた回答は「NO」だった。「この”講演会”は、幅広い人々に興味関心を持ってもらうのが目的であり、多くの参加者を集めるためには、初心者でも理解できるよう、平易な内容で構成する必要性が高いから」というのが理由だった。さすがに知人は食い下がってくれたようだが、最終的には「YouTube視聴を【必須】にするのは認められないが、【推奨】ならば認めてもよい」という結論に至った模様である。

それはもちろん、この私に「YouTubeで語っているのと同じ内容を、オンライン上でライブで語れ」と要望するのと同義であり、残念というほかない。それはさておくとして、主催者たる行政機関はそれで済ませてよいのだろうか。担当者や所属長は、きっと「必須を推奨と書き換えることで、参加者の事情と講師候補者の立場を両立できた。自分たちは高度な調整能力を発揮した」と思っているに相違ない。しかし現実には、地域の未来を奪うとともに、講師候補者を悲しませる結果になった。

こう記述すると、私が受諾を拒否したのは感情的な要因が大きいと映りかねない。もちろん、そんな訳はない。そもそも、こんな行政機関に対して立腹する価値やヒマは微塵もない。主たる理由は、こうだ。

一つは、全国各地には現に「これは遠隔地に巡ってきた千載一遇のチャンスだ」と認識して速やかにシフトし、新たな歴史を築きはじめたところも少なくない事実。もう一つは、「コロナ禍に起因する環境変化に適応できない者が、工業社会から情報社会への変化を認識して適応できるはずはない」という構図だ。

コロナ禍による環境変化は、あまりにも急激かつ甚大であったがゆえに、新たな環境への適応策を編み出していくべき必要性は、誰にも認識できるものであったといえる。他方、私は常々、教育改革の必要性を「世界が工業社会から情報社会へと変遷したのに伴い、育成すべき人材像が『言われたことを速く正確にこなす人材』から『新たな価値を対話的に創造していける人材』へと変わった」という環境変化から説き起こしている。しかし、実感値が乏しく、なかなか適応が難しい。となれば、当然の帰結として、私が「地域の担い手育成策」を丁寧に説いたところで、それが形になる期待など全く持ち得ない。

「個人的な理解」を「組織的な決断」へ

おそらく、私に限らず、新たな環境に適応すべく進化を遂げてきた者なら、こうした後進性に気づいた瞬間に「これは無理だ」と察知し、その場を去っていくに相違ない。寄りつくとすれば、高価な壺を売りつけて去っていく、ハゲタカ的な業者くらいだろう。

もはや懸命な読者には説明を繰り返すまでもないであろうが、私が申しあげたいのは「コロナ禍に伴う環境変化に適応を怠っている集団に未来はない」という運命だ。おそらく、このメッセージは読者個人には届いているであろう。しかし、読者が所属する組織や地域に未来があるかどうかは、組織や地域が環境変化に適応しようと努めているかどうかにかかっている。

最後に念のため、「コロナが去って、これで昔に戻れる」等という感覚を持っているとすれば「それは論外である」と申しあげ、脱稿することとしたい。

 

2020.11.16