起業とは何か

著者
大正大学地域構想研究所 顧問
養老 孟司

起業について考えたことはない。国立大学に勤務して二十七年、そこを辞めて一年浪人して、別な大学に再度就職した。再就職した理由は単純で、勤務先がないと、不便だと気が付いたからである。

たとえば同窓会がカードを作ると言ってきた。財政的に同窓会の助けになるのだという。それなら加入しようと思い、書類を取り寄せたら、まず「勤務先」という欄がある。これを書かないと、いろいろ面倒なことになりそうである。結局、思いに反して、同窓会のカードは作れなかった。以下同様で、何かしようとすると、また勤務先を聞かれるに違いない。たまたま古くからの知り合いが再就職の打診に来たので、これ幸いと就職させてもらった。

一年間の浪人の間に、何か仕事を立ち上げようと思ったことはない。つまり起業しようとは思わなかった。勤務を辞めても、講演と著作で、なんとか収入は得られたので、その後も勤務しないでいたら、もっと仕事ができたかもしれない。こう書いてみると、仕事とは何か、という疑問が生じる。

勤めを辞めるときは、むろん女房に相談した。別にかまわないという返事だったから、安心して辞められた。ほかに相談した人はいない。辞めてすぐにコロナ禍が来ていたらどうだったかと思うが、退職金もあったから、なんとか糊口をしのぐことはできただろうと思う。

一般に言う起業とは、何かしようと思うことがあって、するものであろう。私がしようと思ったのは虫取りだから、その仕事からの収入はない。完全な持ち出しである。これも起業だろうか。それでもフリーになってすぐに、「世界・わが心の旅」という企画で、ブータンに行かないかというお誘いをNHKから受けた。これはうれしかった。半月以上かかる仕事だったから勤務があってはできない。辞めてよかったと思えた。

本当は大学の研究職でも、こうした仕事はできていいはずである。しかし「常識として」できない。専門外の遊びだと言われてしまう。このあたりはなかなか面倒な議論になる。私の恩師の恩師、小川鼎三先生は定年間近の時期に日本雪男学術探検隊を組織され、ヒマラヤに行かれた。解剖学者が雪男を探しに行くというようなことは、大学紛争以前には可能だったらしい。

その後、世の中がだんだんやかましくなって、その種の自由は私の時代にはほぼ完全に消えていた。国立大学は「国民の税金を使っている」のだから、遊びに見えるようなことをするなど、とんでもないとみなされてしまう。

近年MMT(現代貨幣理論)が入ってきて、それに従えば、税金から費用が出ているのはいわば形式であって、実質ではない、と理解できた。政府のお金の使い方は、まさに具体的な政策の実行そのものなのである。誰かが使った分だけ、誰かが損をするというものではない。そのあたりをよく理解していなかったので、私自身は公のお金をできるだけ節約した。いま思えば、バカなやり方、考え方だったと思う。

とはいえ政治や経済のような社会の問題は相変わらずよく理解できない。常に身近なところから発想する癖がついているからである。脳から考えるのも、身体から、つまりは個人からの発想である。八十歳を超えているので、もはやこのまま生きていくしかないであろう。起業は元来個人のことだと思うが、うまくいくかどうかは、社会情勢と関係している。私自身は著書が売れたので助かったが、これは運と言うしかない。考えたって、理由はわからない。まして「売れる」という予測がついたはずがない。

●撮影:島崎信一

(『地域人』第71号より)

2021.11.15