観光の背景

著者
大正大学地域構想研究所 顧問
養老 孟司

観光の振興が叫ばれた折に、亡くなられた渡部昇一さんが言われたことがある。「観光なんて振興する必要はない。わかる人が来てくれれば、それでいいんだ」。

この辺が観光受け入れのツボではないか。ひたすら客が来ればいいでもないし、そうかといって、観光地が寂れたのでは商売にならない。相手のある仕事は、なにごとであれ、面倒くさい。私はもともとそう思う性質だから、臨床の医者にもなれなかった。患者さんの扱いが苦手だったからである。

京都や鎌倉に観光客が多いのは、なぜだろうか。「鎌倉はいいところですねえ」。そう言ってくれる人が多いから、「どこがいいんですかね」と言い返す。税金は高いし、人が多すぎて休日は外にも出られない。

そう反論すると、「でも緑もあるし、海もある」という。「そんなもの、過疎地に行けば、いくらでもありますよ」。なにも相手を黙らせようと思って、議論を吹っかけているわけではない。じつは本当になぜなんだろうと気になっていたのである。
「ともかく雰囲気がありますよ」。この答がいちばん正解に近く聞こえた。では雰囲気とはなにか。京都も鎌倉も寺社仏閣が多いなあ。そう気づいたら、イタリアのフィレンツエだって目玉は花の聖母寺、サンタ・マリア・デル・フィオーレではないか。客船の旅で立ち寄ったカサブランカでも、危ないからとカスバに入れてもらえず、結局は世界のイスラム教徒の寄進でできたという、ものすごく立派なモスクを見て終わり。大自然というけれど、思えばご来光を拝んでいるわけ。

現代は宗教離れの時代と言われる。とくにインテリなら、存在するのは物質的世界であり、あとは人が勝手に作り出した、頭の中の妄想だと、なんとなく思っているに違いない。でも、もし人という存在にとって「宗教的なる何か」が不可欠であるとしたら、どうだろうか。俺は無宗教だと思っている人も、それこそ無意識に宗教的雰囲気を求めているのではないか。そう考えると、そうに違いないという気がしてくる。日常からしだいに宗教的なものが排除されていくと同時に、人々は暗黙に宗教的雰囲気を求めるようになる。それが観光に拍車を掛けていないか。お伊勢参りに大山詣で、出羽三山、江戸時代の観光はもっぱら宗教を巡っている。若者がパワースポットなどという場所に集まるのも、似たようなことかもしれない。

中国政府の高級官僚が伊勢神宮に行き、お付きの人に真顔で尋ねた話をここで紹介した覚えがある。「現代の日本人はこんなことを真面目に信じているんですか」。こんなことも、どんなこともない。人とはそういうものだということを、いちばんよく知っているはずの人たちこそが、長い歴史を持つ中国人ではないのか。

現代はAIがヒトを置き換えると言われる時代である。AIはどんどん利口になり、人に近づくという。やれやれ。そういう人たちは「人とはなにか」を知っていることになる。だって「どんどん似てくる」と言うんですからね。いったいなにに似てくるんだろう。碁・将棋をやると、いまではAIのほうが人に勝つ。どこが人に似ていますかね。私は名人に勝てませんよ。

ここで話はソクラテスに戻る。「汝、自らを知れ」。当り前だが、われわれはソクラテスの時代からより利口になったとは、到底思えない。

箱根の別荘で。                 撮影●島﨑信一

2019.12.16